第2章 浮気相手がニュースになる

その夜、黒谷優は帰ってこなかった。楓花も帰ってこなかった。

翌朝早く、枕元のスマホが狂ったように震える。

南坂海乃は半分眠ったまま通話に出た。

繋がった瞬間、親友の山田依茉の声が耳に飛び込んでくる。

「海乃、トレンド見て! 黒谷優のクソ野郎、またニュースになってる!」

南坂海乃は指先を止め、SNSを開いた。

検索するまでもない。トレンド1位は――

#黒谷グループ社長が妻のために誕生日宴を開催#

写真の中で、黒谷優は墨紺のスーツに身を包み、背筋をすっと伸ばして立っている。佐藤詩乃は丁寧に整えたメイクで彼の腕に絡み、柔らかく微笑む。黒谷楓花は黒谷優に片腕で抱き上げられ、カメラに向かって変顔。

幸せそうで――まるで三人家族。

コメント欄は、すでに爆発していた。

「うわあ黒谷社長ファミリー眼福すぎ! 何この神ビジュ家族!」

「黒谷夫人、美しすぎる……雰囲気も柔らかくて社長と並ぶと映えすぎ!」

「お姫さま可愛すぎ! 両親の良いとこ取り!」

「既婚って噂だけだったけど奥さんこの人だったんだ! そりゃ隠すわ、美人すぎて守りたくなる」

「社長の奥さん見る目が甘すぎて死ぬ。冷たい男も真愛の前では溶けるんだな」

「……」

南坂海乃は無言のままスクロールを続けた。胸の奥が、じわじわと感覚を失っていく。

佐藤詩乃は佐藤家の養女。

五年前、実の娘である自分が見つかった時点で、佐藤家に自分の居場所はもう残っていなかった。

黒谷優との婚約はもともと佐藤家と黒谷家の話だ。けれど南坂海乃は戻ってきて気づいた。黒谷優こそ――かつて野外探検の事故のとき、自分を救ってくれた「あの兄さん」だったのだと。

七年、探し続けた。

七年、好きでい続けた。

だから彼女は佐藤家と交渉し、黒谷優の前では必死に笑って、必死に尽くした。卑屈なほどに媚びて、機嫌を取って。

けれど黒谷優は言った。

長年、自分たちは佐藤詩乃に負い目がある、と。

「偽物のお嬢さま」として生きてきただけでも不幸なのに、最後には婚約まで失った。彼は彼女に共感し、何をするにも彼女を優先した。

その結果――南坂海乃の存在は、一度も表に出されなかった。

結婚式はなかった。

妊婦健診にも一度も付き添わない。

五年の間、「黒谷夫人」という肩書きで生きていながら、彼女は――まるで存在しない人間だった。

今なら分かる。

彼は「公開が嫌い」なんじゃない。

公開したい相手が、自分じゃなかっただけ。

もし隣に立つのが佐藤詩乃なら、世界中に誇って見せたはずだ。

昨夜の誕生日宴みたいに。今日のトレンドみたいに。

南坂海乃はアプリを閉じ、スマホをベッドサイドへ放り投げた。

いい。

どうせ、あの三人は遅かれ早かれ本当の家族になる。

布団を跳ねのけて浴室へ向かう。

鏡の中の顔は青白い。冷水をすくい、顔へ叩きつける。何度も、何度も。目の奥がきりっと冴えるまで。

……

9時を過ぎて、ようやく階下でドアの開く音がした。楓花の弾んだ声が階段を駆け上がってくる。

「おばちゃん、いらっしゃーい! うち、きれいでしょ?」

「うん、すごく素敵」

「じゃあさ、これからここに住んだら?」

南坂海乃が階下へ降りると、三人が揃って入ってきた。

――佐藤詩乃まで連れて。

楓花は南坂海乃を見るなり、ぷいっと頬を膨らませる。

「姉さん……」佐藤詩乃が申し訳なさそうに近づいた。「ニュース、見たよね? ごめんなさい。私、あんなふうに書かれるなんて思わなくて……」

黒谷優が冷たく言い捨てる。

「マスコミが勝手に騒いだだけだ。お前が昨日、先に帰らなければ、あんな書き方もしなかった」

たった数語で、責任は南坂海乃へ押し付けられた。

――いつもの芝居。

佐藤詩乃が何かをして誤解が生まれ、謝りに来る。

黒谷優は必ず彼女の味方をする。

そのうち南坂海乃だけが、咄嗟に牙をむく「攻撃的な女」になっていく。

朝の光の中で、黒谷優の顔立ちはいっそう彫りが深く見え、そして、いっそう冷たく見えた。

南坂海乃は、ふっと可笑しくなった。

昔なら泣いて喚いていただろう。でも今は、演じる気力すらない。

「うん」

それだけ返し、キッチンへ向かおうとする。

「南坂海乃」

黒谷優が眉を寄せて呼び止めた。

南坂海乃は振り返らない。

黒谷優の眉間がさらに深くなる。胸の奥に、言いようのない違和感が生まれた。

――どうして、こんなに静かなんだ。

「何か言うことはないのか」

「ない」南坂海乃は淡々と言った。「あなたの交友関係は、あなたの自由」

黒谷優は彼女の横顔を睨むように見つめ、拗ねた気配を探した。

これまでなら、泣かなくても目を赤くして問い詰めたはずだ。

それが彼を苛立たせ、同時に歪んだ満足を与えていた。

だが今の南坂海乃は、波一つない水面のようだった。

「ママ!」

楓花が命令口調で言う。

「お腹すいた! おばちゃんも朝ごはん食べてないの! 作ってよ! ピザがいい!」

南坂海乃は娘を見た。

四歳の顔立ちはすでに黒谷優に似て、ショーウィンドウの人形みたいに整っている。

けれど、その目が自分を見るときと佐藤詩乃を見るときでは、まるで違った。

佐藤詩乃には甘える、頼る、無条件の親しさ。

自分には――要求と当然の顔。

「冷蔵庫に材料はあるわ」

南坂海乃はレンジで温めた牛乳を取り出し、続けて言った。

「食べたいなら、平井さんに作ってもらって」

楓花が固まる。

「いや! 平井さんじゃやだ! ママの目玉焼きがいい!」

「今日は作りたくない」

南坂海乃はテーブルに腰を下ろし、静かに言った。

「食べたいなら、自分たちでやって」

楓花の目にみるみる涙が溜まる。黒谷優へ縋るように叫んだ。

「パパ! ママいじわる!」

佐藤詩乃が柔らかく宥める。

「楓花、泣かないで。おばちゃんが作ってあげようか」

黒谷優の堪忍袋の緒が切れた声が落ちる。

「南坂海乃、ふざけるのもいい加減にしろ。飯一回作るのがそんなに難しいか」

南坂海乃は落ち着いた目で彼を見た。

「私が不出来だって責めてるの?」

そして、淡々と整理するように言う。

「まず、トレンドの件で私はあなたを責めてない。次に、楓花は佐藤詩乃が作ったものの方が好きなんでしょ。嫌われ役を買って出る必要、ある?」

そう言い捨て、南坂海乃は自分の朝食だけを持って階段を上った。

「黒谷優……姉さん、怒って言ってるだけだよね。追いかけて、なだめてあげたら?」

黒谷優は南坂海乃の背を見つめ、薄い唇を結ぶ。

原来は、怒っているだけ――。

「いい。本当に大したことじゃない。自分が黒谷夫人としてどうあるべきか、考えればいい」

ドアが閉まり、階下の音が断たれる。

――黒谷夫人として、どうあるべきか。

仕事をして、家に戻れば父娘の世話。

それでも足りないと言うのか。

南坂海乃は冷たく笑い、スマホに届いた山田依茉のメッセージを開いた。

【本当に決めたの? 三年だよ。その間はプロジェクトの都合で居場所も完全秘匿、会おうと思っても無理だよ。寂しくなる】

【でも決めたなら止めない。こっちの資料、消しておく? 今後の行き先も隠しておく?】

南坂海乃は窓の外を見る。

庭の古い木には、淡い新芽が出ていた。

引っ越してきた年は手首ほどの太さだったのに、今は二人がかりで抱えないといけない。

時間は残酷なくらい早い。

瞬きをしただけで、もう五年。

そのとき、二人と一人の影が視界に入った。

黒谷優と佐藤詩乃が左右から楓花の手を引き、ぴょんぴょん跳ねる小さな背中を連れて車へ向かう。

朝食を食べに行くのだろう。

南坂海乃の指先が冷える。

そして短く返信した。

【うん。全部消して。六日後、私は黒谷優の世界から完全に消える】

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